
お盆を終えて、帰るいのち
夏になると水難事故が相次ぐ。連日、「どこそこの海や川で人が溺れて見つからない。」というニュースを耳にする。地元の河川「紀の川」でも先月15歳の少年が溺れた。まだその少年は見つかってはいない。地元住民は昔からの言い伝えで「紀の川では絶対に泳いだらあかん。足引っ張られる。」と聞かされている。溺れて浮いてきたことが一度もないと聞かされている。なので言い伝えを聞いている地元民は絶対に泳がない。
日常生活の中でも私たちは溺れる経験をする。それはお風呂である。私はこれまでお二人お風呂で亡くなった方を見送ってきた。浅いお風呂でさえも人は溺れるのである。
溺れるとは手足がバタバタしている状態のことを言う。仏様は溺れることをこうもおっしゃる。「自分自身の思うようにいかないことを溺れる」と。私たちの日常生活で溺れるような思いをすることは多々あるのではないだろうか。 では、溺れないようにするにはどうしたらいいのだろうか? それは浮くことである。水面に浮くような体験をしたことが子供の頃になかったではないだろうか。浮くことはこの身を水面に任せるということ。その時の心

Stop wasting your life!
朝目覚めて、何を思う。
目覚めの1分が大切だ:「今も生きている!」「限られたいのち、さてどう生きようか?」 「今日死ぬかもしれないぞ!」 「これでよし!」と思える今日を生きなければならない。 それはね、今日死ぬかもしれないから。死を通して生を生きることを心がける生き方を日本人はしてきた。以前はね。しかし、団塊の世代に生きる高齢者は「死なない」と思っている。若年世代の働き盛りの者もそうだ。死を避けようとする。 おじいさんおばあさん方をたくさん見送ってきたが、特に男性は死を忌み嫌う。「我々も死ななあかんしね。」と言うと、「わしは、まだ死なん!」「死ねへん!」と言う人がどれだけ多いことか。死の話をしよう思うなら、怒る怒る。 ほんまに思いましたね。死を忌み嫌う方達を教育しないと、これからの多死社会(孤独死・孤立死時代)、日本人は耐える事(自分の生き死にに向き合うこと)ができるのだろうかと。心配するところである。 アメリカにいた頃、仏教を通して、”Death Education”(死の教育)をよくしたのを覚えている。それも小さな子供達から死を迎えた方々