コロナウィルスと私

3月のお寺の行事が中止となる中で、お彼岸のお勤めだけは執り行う予定です。本山もコロナの対応に追われているようで、相次いで行事を中止にしているようです。御門徒様のお宅に行きお彼岸参りをする場合は「マスク着用」でお経を称え、ご法話をさせていただきます。失礼ではございますがやむをえないことです。1日でも早く終息に向かえればいいことではあるのですが。 先日ですが、コロナにまつわることでSNS(FB)で上げられていたニュースに反応。ニュースの内容は、「コロナに感染して陽性の反応が出た男性が外出して飲食店でウィルスを撒いた」ということ。「そして、その席に座っていた方が感染してしまった」ということ。私が記事を読んで反応してSNS上にコメントしたのが、このおっさんの行動が犯罪になるだろうという思いから、「このおっさん!実名あげろ!」ということ。それに対して即座にSNS上で反応がありました。ある方から「私刑はあかんやろ!」ということ。この「私刑」という言葉に反論はしませんでした。なぜなら、このおっさん、いずれ裁かれるだろう(傷害罪)という思いでいましたから。私の思いは、「あかんものはあかんやろ」ということだけです。迷惑行為だということ。ありえへんやんということです。 そして私はこのおっさんの行動に対してSNS上で「自業自得、自己責任や!これは仏教の教え!」と書いたらある人から「それやから日本の仏教はあかんね」みたいな事を書かれました(ちなみにこの人は医者でクリスチャン)。この人にも反論はしませんでした。日本は日本人(この医者でクリスチャンの人)は「自業自得や因果応報」という事を日本仏教の教え

「念仏」や「坐禅」じゃないのです!

宗教にうるさい人は、「念仏称えなさい」とか「坐禅しなさい」とか言いますね。私がお世話になった禅宗の老師は「念仏や坐禅は助業(じょごう)だ」と言われました。どういうことかと言いますと、「念仏や坐禅では人間救われない(仏に成れん!)」と言うのです。 私は門徒さんに「念仏称えなさい」とか「浄土」や「往生」など宗教専門用語を用いて話したりはしません。日常の何気ない言葉の中に仏教のエッセンスを取り入れようとしています。 そこで、私自身の人生経験を通じて「お坊さんのゆる~い話」(カフェで月1回)でお話しさせていただきました。満席立ち見まで出るほどの人の集まり。第1回でお話しさせていただいたのが「自己紹介」と「仏教とは」ということです。「自己紹介」で17歳の時に父親を亡くしたときのことをお話しさせていただきました。 私たちは親を亡くした後「誰を頼りに生きていけばいいのか」迷います。そのとき、大切なのが「生前の親の言動」です。亡親を前にして頼りにできるのは親が残してくれた言葉や行いです。ですので、大勢の高齢者が参加されていたカフェでみなさんに伝えたのが「今、元気なうちに子や孫に自分の思いを伝えること」「子や孫に自分自身がこの世を去らなばならなくなった時に、伝えなければならない事を今語る事が大切です」とお話ししました。私自身、父親が息を引き取る前に書いた「遺言」が今は生きる糧(僧侶として)になっています。別れは辛いが、新たな出会いがあります。それが、亡父が「仏となって私を導いてくださる」という事です。 「ここ・今こうして集う私たちが何をしなければならないかは、大切な人に「いつもありがとうね」

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