「人の死」から「自分の死」へ

 

 

日本に帰国してからもう5年になる。それは住職になってから5年が経つということだ。あっという間の月日だ。そして今年で50歳を迎える。まだまだ僧侶として精進しないといけないところである! 

 

アメリカ生活で自身が活動してきたことを日本でいかに活かそうかということを模索しながら今日に至る。大事にしていることが「こころのケア」である。当然心身のバランスを整えないといけないということであるが。お坊さん、僧侶の生活というものは一番贅沢な生活をしていると私は思っている。世間一般の人たちがそれを(心身一如)できないことを我々が行じているからだ。特にお坊さんとお医者さんは心身を統一してみなさんの手本とならなければならないのだ。しかし、お医者さんでもお坊さんでも病に倒れることがあるのも確かだ。老病死は避けられないと説くのがお釈迦様だ。

 

心身を整えていく中で「人の死」ということに直面することがある。お坊さんに連絡があるのは、「たった今息を引き取ったところです。枕経(臨終勤行)お願いします。」ということだ。また、突然死で看取りもできないまま連絡があったり、自殺でお亡くなりになられた家族の方から連絡があったりと、「人の死」は様々だ。私は全ての「人の死」を受け止める。そして、家族・親族の方に寄り添い、故人様をお見送りするのである。お見送りした後は、「こころのケア」をしていく。残されたご家族の方の「こころのケア」である。7日ごとのお参りがそうである。それ以外に、ご家族から連絡があればお伺いしてお話を聴かせていただく。

アメリカにいた頃は、積極的に亡くなられた方のご家族と関わっていた。頻繁に連絡があり、「今来て欲しい。」「そばにいて欲しい。」「話を聞いて欲しい。」「辛い。さみしい。」「死を受け止められない。」などといったみなさんの思いからよく駆けつけたものだ。アメリカ人はあまり抱え込むことはしない。どちらかというと思いを吐き出す。そして前向きでもある。積極的に私(僧侶)の話を聴こうとする。

日本人はと言うと、真逆である。消極的である。人に自分の思いを話すと言うことが苦手なのだろうか? オープンになるのに時間が必要である。私の経験から3回忌が済むまでは、見守り続ける。丸2年が経つと少しはこちらも安心できるようになる。

3回忌が済んで、ご家族の方と話をしたりみていると、男性と女性によって故人様に対する受け止め方も変化がある。このような言い方をすれば失礼になるかもしれないが、長い間連れ添った奥様を亡くした旦那様は内向き傾向になりやすい。逆に旦那様を亡くした奥様は外向き傾向のようだ。

 

そこで、今問題となるのが高齢者のご夫婦どちらかが亡くなると一人になるということだ。田舎では息子さんや娘さんが家を出て核家族となり、高齢の夫婦だけが生活しているのが多い。最後は、一人になるのだ。まだ動けるうちはいいが、そうもいかなくなると施設に入居となる。子供家族は引き取ってくれないし、高齢の親も子供には迷惑かけたくないと言う。そして一人になり、最後死を迎える時は施設の人に看取ってもらうということになる。

 

お釈迦様は言う。「一人生まれ、一人死し。」と。最後は一人で死んでいくのだということを。ただ死んでいくのは一人だが、家族に看取られて死んでいけないのは寂しいものだ。「人の死」、それが親であれば親を看取って次は「自分の死」を迎える準備をしないといけない。そうした時に、若くても「自分の死」について考えておくのは大切なことである。今私のお寺では門徒さんと世代を超えておつきあいさせていただいている。そしてご両親や若い子供さんに「自分の死」について考える機会を「人の死」(特に親の死)を通して学んでいただいている。いつかは早かれ遅かれ我々は死を迎える。いつかわからないが、その時が必ず来る「いま」に話すこと語ることが大切であると。ご両親が元気なうちに親子で話すこと「人の死」そして「自分の死」を。合掌、

 

 

 

 

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