人が自由に羽ばたくために
淨願寺の寺子屋と看取りについて

はじめに
人に来ていただきたい。その思いは、どのお寺にもあるのだと思います。漫才や落語、コンサートなど、さまざまな催しでお寺の門を開こうとする試みも、寺が人から遠くなってしまったことへの痛みから生まれているのでしょう。 けれども私は、ときどき立ち止まって問ずにはいられません。賑わいの先に、念仏の声は立ち上がっているだろうか。入口ばかりが続いて、その奥にあるはずのものが置き去りになってはいないだろうか、と。 看取りの場に立ち会っていると、そのことが身に沁みてわかります。死を前にした方に、催しの賑わいは届きません。届くとすれば、傍らにいる者の中に何が確かにあるか、ただそれだけなのだと思います。
お寺は公共の場、念仏の場
淨願寺では、寺子屋を開いています。お寺は誰のものでもなく、開かれた公共の場です。そこに集い、念仏を称えます。
住職である私自身が信心をいただいてから(禅の言葉を借りれば、見性ののちに)、この寺子屋を自由に営むようになりました。何かを足して人を呼ぶのではなく、ここにあるものをそのまま差し出す。それが私にできることだと感じています。
十牛図 ― ありのままの私に帰る
禅に十牛図という絵があります。牛を探しに出て、見つけ、手なずけ、やがて牛も自分も消えていく。そして最後には、元の世界、ありのままの私に帰ってきて、ただ街の人々の中を歩いている。
そこに帰ってくると、もう教えに縛られることはありません。仏教にも、宗教にも縛られず、自由に世界を泳いでいく。それで十分なのだと思います。必要なのは、報恩の思いと、目の前の人を大切にすること。それだけです。
ですから、淨願寺では、浄土真宗にさえ頼らずに自らの足で立つことをお伝えしています。宗教は、いわば借り物です。川を渡るための筏のように、渡るまでは大切に使い、渡り終えたら置いていく。教えを捨てるのではなく、教えがもう外側の決まりごとではなくなり、日々の暮らしの中に溶けていく。そういう道があるのだと思うのです。
寺子屋 ―羽ばたく世界を取り戻す場
寺子屋は、人が自由に羽ばたける世界を取り戻すための場です。お寺に人をつなぎとめるためのものではありません。
筏を差し出しながら、最初から「渡り終えたら置いていってください」とお伝えする。住職としての私の務めは、一人ひとりが世間へと羽ばたいていけるよ
う、そっと背中を押すことだけなのだと思っています。来られる方を縛らず、去っていく方を引き留めない。そうであってこそ、お寺は本当に開かれた場になるのではないでしょうか。
看取り―手放して委ねる
私は、看取りの場にも身を置いています。そこで大切にしているのは、すべてを手放して、ただ委ねること。お任せする、という境地です。
寺子屋では羽ばたくことを取り戻し、看取りでは手放して委ねる。向きは反対に見えるかもしれません。けれども、どちらも握りしめていたものをほどいていくことなのだと感じています。生きているあいだは自由に泳ぐために手放し、最期には安心して任せきるために手放す。その一つの道のりを、皆さまのそばで最後まで見守っていきたいと願っています。
むすび ― 報恩の思いだけ
振り返ってみると、私がしていることは、結局のところ報恩の思いだけなのだと思います。何かを成し遂げるためではなく、すでにいただいているものへの応答として、人の傍らにいる。
お寺に来られる方が、いつか教えからも宗教からも自由になり、ご自身の足で世界を歩いていかれる。そしてその人生の最期には、安心してすべてを委ねていかれる。その道のりに寄り添えたら、それ以上の喜びはありません。
淨願寺 住職

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