空間デザインと臨床宗教──「内省」をめぐる対話
- hojot2010
- 7月13日
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先日、2025年大阪・関西万博アメリカ館にて空間・体験デザイン部門のリードデザイナー兼アートディレクターを務められた川口恵理さんと、当寺にてお話しする機会をいただきました。
川口さんは約24年にわたりロサンゼルスで空間デザイナーとして活動され、現在は京都芸術大学大学院にて「内省を促す空間とは何か──龍安寺石庭を事例研究として」という研究に取り組んでおられます。ご縁の始まりは、お母様が新聞で当寺の紹介記事を見つけてくださったことでした。実家が当寺から歩いて行けるほど近くにあるという偶然も含め、不思議な巡り合わせを感じております。
空白がひらく内省、関わりがひらく内省
対話の出発点は、龍安寺石庭に代表される「空白の設計」でした。大きな余白と、何も語らないことによって、見る者の内側に内省を促す──これは空間デザインの世界における一つの到達点だと思います。
一方、私が身を置いてきた臨床宗教(チャプレン)の現場は、病院やホスピスという、常に人の生死が動いている場所です。そこでの内省は、静かに整えられた空間の中で起こるというよりも、対話や沈黙、そして人と人との関わりの中で、予期せず立ち現れるものでした。
「デザインされた内省」と、「関係の中で自然に開かれる内省」。この二つは対立するものではなく、むしろ一つの円環の異なる位置にあるのではないか、という話になりました。禅の『十牛図』でいえば、何もない円相(第八図)が石庭の思想と重なるとすれば、看取りの現場は、その空を経たのちに再び市中へ入っていく最後の図(第十図・入鄽垂手)に近いのかもしれません。空を見つめることと、生々しい関わりの中に身を投じること。どちらも内省という一つの道の異なる姿です。
「間」と「沈黙」──古民家とコミュニティーの空間へ
対話は、石庭という観照的な空間の話から、次第により生活に根差したテーマへと広がっていきました。誰もが集える古民家の再生、そしてコミュニティーを支える空間デザインです。
ここで語られた「間」や「沈黙」は、もはや美学的な概念にとどまらず、人と人との関係の中にどれだけの余白を残せるか、という実践的な問いへと変わっていきました。過干渉でもなく、放置でもない。ちょうどよい距離感の中に、人が自分自身と向き合う余地が生まれる。これは、臨床宗教の現場で私が大切にしてきた「寄り添い方」そのものとも深く重なるものでした。
答えを与えることではなく、共にいること。沈黙を埋めることではなく、沈黙を共に耐えること。その先に、本人の内側から自然に立ち現れてくる言葉がある。看取りの現場で幾度となく聞いてきた「ありがとう」という言葉は、まさにそうした場から生まれるものだと感じています。
二つの専門性が交わる場所
空間デザインと臨床宗教。出発点も方法もまったく異なる二つの専門性が、「内省」という一点において深く共鳴した時間でした。
石庭が空白によって人の内省を「起こりやすくする」ように、看取りの現場における沈黙や、そこに身を置く者の姿勢そのものもまた、一つの空間デザインなのかもしれません。目に見える建築だけでなく、人と人との間に生まれる「間」もまた、内省を育む器になり得る。そのことを、川口さんとの対話を通じて改めて教えていただきました。
今回の学びを、これからの寺の在り方、そして臨床宗教の実践の中に、少しずつ活かしていきたいと思います。
合掌

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