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みんなのお寺 淨願寺

空の検索で4件の結果が見つかりました。

  • 魂はどこにいますか?<お盆のお話>

    お盆を迎えると、門徒さんからよくこう尋ねられます。 「魂はどこにいますか」 今日はこの問いについて、私なりに考えてきたことをお話ししたいと思います。 魂は自然に帰る 遠い昔、仏教が日本に伝わる以前から、日本人は死者の魂の行方についてある感覚を持っていました。人は死ぬと、魂は山へ帰る。あるいは川へ、海へ、森や花畑へと帰っていく。そう信じられてきました。 京都の夏の風物詩である「五山の送り火」も、この物語の延長線上にあります。お盆に家々へ迎えられたご先祖の魂は、送り火に導かれて、再び山へ、あの世へと帰っていく。京都市民にとって五山は、死者の魂が帰る場所であり、お盆になるとまたそこから我が家へ戻ってくる場所なのです。 そしてこれは、京都だけの特別な話ではありません。皆さんのご自宅で毎年焚かれる迎え火・送り火も、実は同じ物語の中にあります。おがらを焚いて、その火で道筋を照らし、ご先祖を家までお迎えする。送り火で「また来年」とお見送りする。五山の送り火を大きく引き伸ばせば、それはそのまま、それぞれのご家庭の玄関先の営みなのです。 日本人はこうして、死者が現世のそばに帰ってくることを、恐れではなく喜びとして受け止めてきました。ところが、この話を外国の方にすると、こう言われることがあります。 「魂がそばにいると聞くと、怖い」 同じ「魂が帰ってくる」という出来事が、ある文化では安心になり、ある文化では恐怖にな る。この違いは、私たちが古くから、山や川や海という大きな自然そのものに、すでに神仏の宿りを感じてきたからではないかと思います。 魂は浄土に帰る 仏教が日本に伝わってからは、この感覚に、阿弥陀様の浄土という物語が重なっていきました。亡き人は阿弥陀様の浄土へ還り、そこから私たちのもとへ帰ってくる。 浄土真宗では、息を引き取るとすぐに仏となり、私たちを見守ってくださるご先祖様になると説きます。ですから浄土真宗においては、お盆のこの数日間だけが特別なのではなく、毎日がお盆なのです。死者は常に私たちを守ってくださっている。魂は、決して遠く離れた場所にあるのではなく、常に私たちのそばにあるのです。 古神道が語ってきた「魂はどこから帰ってくるか」という物語と、阿弥陀信仰が語る「その仏さまが今どう私たちに働きかけているか」という教えは、対立するものではありません。前者は、私たちの心を開くための、馴染みのある入り口です。そこに、「実はその仏さまは、盆の三日間だけでなくいつもそばにいて、あなたを見守っている」という真宗の教えが重なる。だからこそ私たちは、恐れではなく、ずっと抱かれていたのだという安心を得ることができるのだと思います。 お盆は、その感謝をあらためて思い出すための期間なのでしょう。普段、感謝のお参りができていない私たちのために、あえてこの期間が設けられている。そう受け止めています。 魂は言霊として生きる そして最後に、私が一番お伝えしたいことをお話しします。 魂とは、言霊のことでもあると私は思っています。亡き人の思いや行い、かけてくれた言葉が、私自身の心の中に、今も生き続けている。これが魂です。 これは、「どこかへ行く」場所の話ではありません。山にも帰らない、浄土にも留まらない。今この瞬間、私の中に、言葉として、行いとして生きている。それが言霊としての魂です。 私自身、本堂でお勤めをしていると、衣を引っ張られる感覚がたびたびあります。肩であったり、袖であったり、足であったり。その場所によって、なんとなく分かるのです。肩なら大人、足なら子供。誰かまでは特定できませんが、赤ちゃんから老人まで、これまで千人以上の方を看取り、見送ってきた中で、引っ張られ方の強さや場所によって、自然と声のかけ方が変わっていきました。子供であれば「遊びたいんやな」と思い、大人であれば「迎えにきてるんかな」と思う。そのたびに、私はこう語りかけます。 「私はまだそちらに行かないよ。まだこの世でしないといけないことがたくさんある。その時が来たら必ずそちらへ行くからね」 そう声をかけると、引っ張るのが止まります。 理屈で説明のつく話ではありません。ただ、これまで見送ってきた一人ひとりとの、この静かな往復の中で、私は確かめてきました。亡き方の魂は、私の中に生き続けている。だから私自身もまた、その魂に守られている、と。 魂はどこにいますか 門徒さんに問われたとき、私はいつもこの順番でお答えします。 まず、魂は自然に帰ります。山へ、川へ、海へ。 そして、魂は浄土に還ります。阿弥陀様のみもとへ。 けれども、言霊は生き続けます。亡き方と共に、私たちの中に。 魂は、常に私たちのもとにあります。見守り続け、共に歩んでくれています。 不安に思うことはありません。守られている。その思いの方が、ずっと強いのです。 合掌

  • 空間デザインと臨床宗教──「内省」をめぐる対話

    先日、2025年大阪・関西万博アメリカ館にて空間・体験デザイン部門のリードデザイナー兼アートディレクターを務められた川口恵理さんと、当寺にてお話しする機会をいただきました。 川口さんは約24年にわたりロサンゼルスで空間デザイナーとして活動され、現在は京都芸術大学大学院にて「内省を促す空間とは何か──龍安寺石庭を事例研究として」という研究に取り組んでおられます。ご縁の始まりは、お母様が新聞で当寺の紹介記事を見つけてくださったことでした。実家が当寺から歩いて行けるほど近くにあるという偶然も含め、不思議な巡り合わせを感じております。 空白がひらく内省、関わりがひらく内省 対話の出発点は、龍安寺石庭に代表される「空白の設計」でした。大きな余白と、何も語らないことによって、見る者の内側に内省を促す──これは空間デザインの世界における一つの到達点だと思います。 一方、私が身を置いてきた臨床宗教(チャプレン)の現場は、病院やホスピスという、常に人の生死が動いている場所です。そこでの内省は、静かに整えられた空間の中で起こるというよりも、対話や沈黙、そして人と人との関わりの中で、予期せず立ち現れるものでした。 「デザインされた内省」と、「関係の中で自然に開かれる内省」。この二つは対立するものではなく、むしろ一つの円環の異なる位置にあるのではないか、という話になりました。禅の『十牛図』でいえば、何もない円相(第八図)が石庭の思想と重なるとすれば、看取りの現場は、その空を経たのちに再び市中へ入っていく最後の図(第十図・入鄽垂手)に近いのかもしれません。空を見つめることと、生々しい関わりの中に身を投じること。どちらも内省という一つの道の異なる姿です。 「間」と「沈黙」──古民家とコミュニティーの空間へ 対話は、石庭という観照的な空間の話から、次第により生活に根差したテーマへと広がっていきました。誰もが集える古民家の再生、そしてコミュニティーを支える空間デザインです。 ここで語られた「間」や「沈黙」は、もはや美学的な概念にとどまらず、人と人との関係の中にどれだけの余白を残せるか、という実践的な問いへと変わっていきました。過干渉でもなく、放置でもない。ちょうどよい距離感の中に、人が自分自身と向き合う余地が生まれる。これは、臨床宗教の現場で私が大切にしてきた「寄り添い方」そのものとも深く重なるものでした。 答えを与えることではなく、共にいること。沈黙を埋めることではなく、沈黙を共に耐えること。その先に、本人の内側から自然に立ち現れてくる言葉がある。看取りの現場で幾度となく聞いてきた「ありがとう」という言葉は、まさにそうした場から生まれるものだと感じています。 二つの専門性が交わる場所 空間デザインと臨床宗教。出発点も方法もまったく異なる二つの専門性が、「内省」という一点において深く共鳴した時間でした。 石庭が空白によって人の内省を「起こりやすくする」ように、看取りの現場における沈黙や、そこに身を置く者の姿勢そのものもまた、一つの空間デザインなのかもしれません。目に見える建築だけでなく、人と人との間に生まれる「間」もまた、内省を育む器になり得る。そのことを、川口さんとの対話を通じて改めて教えていただきました。 今回の学びを、これからの寺の在り方、そして臨床宗教の実践の中に、少しずつ活かしていきたいと思います。 合掌

  • 2025年 春の法要・イベント

    国登録有形文化財記念法要・花まつり法要・新入生を迎える会・お祝いの餅ほり

  • ハーバード大学医学部が発表!

    ハーバード大学が、終末期医療にAIを使用すべきであるかどうかが議論されています。日本の終末期医療はまだまだここまで及ばないでしょう。 アメリカボストンのマサチューセッツ総合病院のチャプレンとして従事していた頃は「死の教育」について活発な意見・議論がなされていました。あれから、今ではAIの技術を駆使してより良い終末期医療のあり方を研究しています。 https://hms.harvard.edu/news/should-ai-be-used-end-life-medical-decisions?utm_source=AcousticMailing&utm_medium=email&utm_campaign=HMNews_021825%20(1)&utm_content=HMNews_0218_2025

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